あれは忘れもしない一昨年の暮れ、ツレウヨの公演で東京に出発した日のこと。
集合まで時間をつぶすために三条のブックオフで本を物色していたら、ピーター・ポップカークの『ザ・グレート・ゲーム 内陸アジアをめぐる英露情報戦』が1500円でポンと置いてあるのを発見したのです。
インドへの道を巡って大英帝国とロシアが繰り広げたいわゆる闇戦争。
19世紀の冷戦とも言うべきこのスパイ合戦の顛末を、代理戦争の駒にされたアジアの国々の運命と、その影で暗闘する英露のスパイたちの群像を通してドラマチックに描いた浪漫あふれる名著です。
とっくに絶版、入手困難でプレミアまでついている貴重な本が1500円。
ブックオフにはたまにこういう掘り出し物があるからあなどれない。
喉から手が出るほど欲しかっのですがこれから出発というときに荷物を増やしたくなかったので、帰ってからの楽しみにとっておこうと思ったわけです。
ところが京都に戻ってきてみたらすでに誰かに先を越されていたのです。
あれから一年とふた月、あのとき自分に素直になっていればと、後悔しない日はありません。
笑の内閣の由良です。
好きな本というお題なので、最近読んだ本、読んでいる本を思い浮かべてみたら、タハール・ベン=ジェルーンばかりの気がします。この間やっと『モハ』を読みました。
『砂の子ども』『聖なる夜』とか有名ですが、『不在者の祈り』がとくにお気に入りです。
苦痛を描くときのベン=ジェルーンの詩的なセンスにはゾクリとしてしまいます。
あとは、古本屋で見つけたランシマン先生の『十字軍史(1)』と『シチリアの晩祷』でしょうか。
古本屋っていいですね。
小ぎれいな新古書店の類いではなく、街の片隅でひっそりと何十年もやっているようなかび臭い薄暗いほうのです。
中を漁っていると宝探しみたいでワクワクしてしまいます。
東淀川にアジア図書館というのがあって、あそこも実にかぐわしい匂いの漂っているところです。
アジアに関する本がほとんど何でもそろっているというアジア好きにとっては楽園のようなところです。
つまるところ西アジア、中央アジアを軸にした歴史とか古いものに関心があってそういう本ばかり漁ってきました。
そのきっかけになった一冊がイスマイル・カダレの『夢宮殿』。
オスマン帝国の権勢が斜陽に差し掛かってきた不穏な時代、臣民の夢を収集し選別し解釈して未来を予測し、国家の存亡に関わる深い意味を持つ夢を選び出すという架空の官庁を舞台に、名門出の青年が冷徹な官僚機構の歯車に組み込まれ、しだいに地位を上り詰めていくサクセスストーリーです。
メルヒェンチックなタイトルですが、内容は全体主義の恐怖を描いた不条理小説です。
この本に出会ったのは子どもの頃でまだ歴史にあまり興味がなかったので、どこの国のことかも分からなかったのですが、この小説のエキゾチックで謎めいた香りに魅了され、それから中近東やバルカン半島のことをいろいろ知りたくなって今に至るというわけです。
主人公の出自であるアルバニアの名門貴族の運命や、スルタン・ムラト1世が陣没したコッソヴォの戦闘なんかについて知ってから読んでみるとまた違ったおもしろさがあってとてもいいですね。
時代背景について作中では明確にされていませんが、エピローグでロシアとの休戦と帝国からのギリシャの離脱について触れられていることから、あとがきで1870年代頃ではないかと書いてありますが、どちらかというとマフムート2世の時代のほうがしっくりくるように思います。
バイロン卿がダーダネルス海峡を泳ぎ渡ってヘーローとレアンドロスの有名な伝説があり得ないことではないと証明して見せたころですね。
カダレと同じくバルカン半島の作家、ミロラド・パヴィチがヘーローとレアンドロスをモチーフにして『風の裏側』という奇想小説を書いてましたがあれも面白いですね。
違うの時代を生きる男女の物語りが背中あわせに描かれたこの小説は、本の両面どちらからでも読めるという奇妙な作品です。
ふたりの主人公の間には直接の接点や因果関係は全くないのですが、ウリムとトムミムみたいに表裏になったふたりの運命が、音楽のように奇妙に共鳴して最後にひとつに溶け合うという不思議な味わいのある作品です。
パヴィチといえば外してはならないのが『ハザール事典』。
ハザールとは9世紀から11世紀にかけて黒海からカスピ海沿岸に強大な勢力を築いた半遊牧民の王国。
東ローマとイスラム帝国にちょうど挟まれたこの危険な地域で、中立を保つためにユダヤ教に改宗したと伝えられています。
そのときに行われた改宗論争の謎と、夢の狩人と呼ばれた不思議な人々の運命を、三つの時代、三つの宗教のそれぞれの立場から描いた奇想天外な物語りです。
事典形式でどこから読んでもいいし、読者が好きなように話を組み立てて構わないという、ビザンチンのモザイク壁画のように多民族、多文化の入り乱れた東欧の作家ならではの独創性と遊び心にみちた傑作です。
その形式の真新しさだけでなく、独特な時間感覚を持った(バルカン半島には少なくとも暦が三つはある)パヴィチの文章には他に類を見ないおもしろさがあります。
そんなパヴィチ氏も、2009年に81歳で亡くなられてしまいました。
心から冥福をお祈りします。
合掌。